谷 充展のブログ

ある時、不意に胸を衝く言葉たち。そういうものが、どこかに隠れている。そんな場所。

満腹、タクシー、キラキラネームと民主主義

今日もまっすぐ帰宅。どこかのパブでサッカーを観ようか考えていたけど、結局家に帰ることに。クリーニングに出していたスーツを取ってから帰ると、思っていたより代表戦のキックオフが遅くて、前半5分くらいに家に着いた。

 

自宅のマンションだけど、浴室にテレビがある。僕はテレビを基本的に見たくないので、テレビを持っていない。サッカーの試合とかどうしてもテレビを見たい時は、お風呂場にこもることになる。最初に内見に来た時は、さすがに驚いた。風呂場にテレビ、って。

 

それで、家についてから浴室のテレビでサッカーをつけ、実況の音声を聞きながらご飯を炊く。お米を火にかけている間に、頂き物の泉州水ナスを丸々1個洗ってちぎる。水ナスに包丁を入れるのが御法度だなんて、最近知りました。でも手で割いた時の断面の食感が、なんとも言えず良い。とりあえず、お米が炊けるまでの間、浴室で観戦。重苦しい展開も、なんとか先制して折り返し。

 

ハーフタイムの間に、解凍していた鮭をフライパンで焼く。5分焼いて裏返してもう5分。焼きあがる頃に納豆を準備して、先に水ナスと白ご飯で、いただきます。うまうま。そうこうしているうちに、鮭も焼き上がり皿に盛り付ける。白米、焼き魚、納豆、水ナス。十分な献立。風呂場から歓声が聞こえてくるのでのぞいてみると、2点目が入っている。ふむふむ、と思いながら食事。3点目。ゴール。お茶碗2膳分のご飯を食べて、水ナスも鮭も平らげると、もう満腹。お腹ぽっこり。なんか久しぶりによく食べたな。

 

結局サッカーもそれ以上点が入ることもなく、なんとなく消化不良のまま終了。得失点差に泣かなければいいけれど、ね。

 

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不意に、9年前の8月、ドイツで乗ったタクシーのことを思い出した。

 
フランクフルトだかデュッセルドルフだか、場所は忘れたけれど、とにかく空港を間違えた。どちらの空港にも同じ都市名がついていて、本来行くべきは大きなハブ空港、間違えて着いたのは昔の空軍基地が転用されたささやかな空港。
 
もちろん、フライト時間も迫っていたので、慌ててタクシーを捕まえる。ドライバーは、トルコ系(だと思う)のオッチャン。事情を察してくれて、いざ出発。
 
なぜか、僕が座ったのは助手席で、なんとも言えない緊張感が身体を包み込んだ。その頃はロクに英語も喋れないし、オッチャンの英語がまた訛りがきつかった。それに、これはおそらく人種差別的な偏見からと言わざるを得ないと思うけれど、何かしら犯罪に巻き込まれたらどうしようとか、そういう不安もあったように思う。所持金を巻き上げられるのか、とか。
 
それはともかく。
だだっ広い風景が広がる中、ドイツの高速道路を猛スピードで駆け抜けるタクシーの助手席からの景色が、不意に蘇ってきた。スウェーデン留学中にハンガリーからオーストリア、ドイツ、ベルギーと大学の先輩と旅した帰りのこと。今の今まで、一度も思い出したことがなかったから、少し驚いていた。最初に着いた、間違えた方の空港のもの寂しさとか、少し窮屈なタクシーの車内の感じとか、自分の左隣に座って陽気に話す髭を生やしたオッチャンとか。
 
 

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昼間、「キラキラネーム」について少し考えた。

 

中学生年代やそれ以下の試合に審判をしに行くと、メンバー表の名前が読めなくて困ることが段々増えてきたように感じる。苗字ではなく、名前が読めない。あるいは、読みは推察できても当てられている漢字の華やかさに戸惑ったり。

 

例に漏れず僕も、こういう名付けをする親を軽蔑するようなことを考えていた。最近インターネット上で目にしたのは、子供自身が自分の「キラキラネーム」を嫌って、改名したいというケースが出て来始めているというような記事。そういったことも含めて、基本的なスタンスとしては、「何考えて名前つけとんねん」という感じ。

 

でも、少なからずとも、そういう名付けをした時のその親の中では、何かしらの形で我が子に対する思いであったり願いであったり、そういうものがあったんじゃないかなぁと想像してみると、これまでの自分の反応の仕方が、浅はかに思えた。

 

SEALDsの中心メンバーである奥田愛基氏が、対談記事の中で言っていたこと。

「民主主義っていうのは単なる制度ではなくて、ひとりひとりの意見が違う中でどう生きていくか、という能力だと思う。」

激しく頷いた。本当にそうだなって思う。制度ではなく能力だ、という定義の仕方の中に、「その能力をいかに開発し、伸ばしていくか」という遂行的なメッセージが含まれている。そんなことを発信する奥田氏自身の名前をみて、そして彼の民主主義の定義を読んで、「キラキラネーム」について考えた。そして、安易に判断して決めつけるより、親がそういう名前にどんな想いを込めたのかを想像できる方が、いいと思った。

 

それと、自分がそういう名付け方を好きか嫌いかというのは、また別の話。問題は、そういう名前を目にした時の、自分の中の反応。