谷 充展のブログ

ある時、不意に胸を衝く言葉たち。そういうものが、どこかに隠れている。そんな場所。

誰が為に笛は吹かれるのか。

スペイン人の友達とサッカーを観に行った帰り、バルで飲みながら話したこと。

「何のために、誰のために審判はおると思う?サッカーそのもの?選手?観客?」
Para quién o para qué está árbitro en fútbol?

直近の試合でモヤモヤしていたものを少しでも咀嚼したくって。

曰く。
「選手をコントロールするため。選手が怪我をしないように。サッカーのためとは言わない。サッカーは常にサッカーであり続けるから。」

オーケー。じゃあ選手が怪我をしないためにどうして選手をコントロールする必要がある?

「コントロールする者がいないと、選手がどこまでなら許されるのか試してきて、プレーの激しさに歯止めが利かなくなるから。」

こういったことを、一人の在日外国人としての視点で語ってくれた。日本で暮らして実感する文化的な違いや背景といった切り口で。

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いちいちの正誤を気にしてると、全体の絵が描けなくなって逆に試合の醍醐味を削ぐことがある。しかし、全体としてのコントロールの土台には、一つ一つの正確な判定の積み重ねが相当大きな割合を占めていることもまた事実である。

予防的なレフェリング、と口で言うのは容易い。けれども、紋切り型のフレーズで水に流すわけにはいかない。

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味方が再三再四のビッグチャンスを外し続け、レフェリーは的確な判定で試合をコントロールしていても、最後のワンプレーで際どい(けれども正しい)PKを取られて0-1で負ければ、矛先はレフェリーに向くだろう。それが嫌なら、辞めるしかないでしょう。