タイトルは何のことはない、周年を表す言葉を英語・フランス語・スペイン語で書いただけです。
今時のFacebookには便利な機能があって
(Facebook自体が今時なんですけど)
「1年前のあなたはこんな投稿してたよ!」
「3年前にはこんな写真あげてたね!」
みたいに親切に教えてくれるんですね。
それで少し物思いにふけったので、文字にして残しておこうかと。
今、出張で中国に来ている。例年8月末にある展示会に向けてのサンプル確認が、出張の主な目的。実際来るのは、去年に続いて2回目。昨年同様、今年もお盆の時期にちょうど重なる日程での出張。
去年はこの出張のあと、ちょうど展示会の週に代休を取って、留学していた時以来7年ぶりにスペインへ旅行に行った。同じ年の3月に東京で共通の友人を介して知り合ったカップルを訪ねるのと、もちろんサッカーを観ることが目的の旅行。なによりも、ようやくヨーロッパを再び訪れることができたことが非常に感慨深かった。1週間の滞在後、しばらくはいいかなぁとさえ思えたほどに。
もうその旅行から1年たったと思うと、この1年間の時の流れの速さに少しとまどう。
その前の年、すなわち一昨年の8月には、お盆の帰省を利用して東京ー大阪間を東海道線で12時間かけて移動。子供の頃からの漠然とした夢が叶った帰省になった。ちょうど今日、その時のFacebookの投稿が出てきていて、「もう2年か」と、また別の感慨に浸っていた。
そして思った。
この2年間で、僕はどこにたどり着いたのだろうと。
あまりにも多くの人に出会い、
あまりにも多くのことを経験し、
あまりにも多くの思考に絡まり、
あまりにも多くの感情に溺れ、
そして
あまりにも迷い続けた。
迷い続けたし、今も迷い続けている。
そんな時に、ある言葉に出会う。
フリッツ・パールズの「ゲシュタルトの祈り」。
自分の軸はやはりここにあるのかなと、なんとなく思う。
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時に、
どうしようもないくらいにどうしようもなくなり、
それでも
どうにかこうにかするしかないから
どうにかしていくのです。
過ぎ去った時を悔やむよりも
前を向いて歩いていこう
というのは非常にたやすいけれども
どうしても悔やんでしまうならば
無理してそれを止めようとすることも
ないんじゃないかと思う。
どうしようもない感情に浸るしかない時は
どっぷり頭のてっぺんまで浸ればいいと思う。
どこかで客観視できる余地があるなら。
「時間をかける人は多いけれども
手間をかける人は少ない」
この間言われた言葉。
手間なんだよ、手間。
それは、思いやりとかに
繋がっていくんだよ。
きっと。
諦めることと
手を抜くことは
全く位相の異なることです。
そのあたりの規矩を
自分の中に拵えて
いかねばならんのかも
知れんです。