谷 充展のブログ

ある時、不意に胸を衝く言葉たち。そういうものが、どこかに隠れている。そんな場所。

小説と、1冊の中の距離感と。そして、連邦最高裁の判決に寄せて

村上春樹の小説を読み始めた。

最初に『風の歌を聴け』を読み、次に手に取ったのが

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』。

 

今しがた、読み終わったばかり。

ビール2本でほろ酔いになりながら、これを書いている。

 

この上下巻の長編小説を読み進めながら、ふと思ったことがある。それは、小説の終わりに近づくにつれて、序盤〜中盤にかけての内容が、思っている以上に物理的なページ数で距離があるということだ。

 

クライマックスに向けて話が展開していく勢いに飲まれて、気がつけばかなりのページ数を読み進めていることに気づく、といったほうがより正確かもしれない。

 

この距離感を目の当たりにするたびに、不思議な気持ちになったのだけれど、今日はこれが小説を読む醍醐味の一つだという風に感じた。おそらく、自分の中にある一定量のページ数に対してそれだけのページ数を読み進めるのに必要な労力についての先入観があって、それほどの労力をかけずに思いがけず多くのページ数を読み進めてしまった時に、感じる感覚なのだろうと思う。

 

それともう一つ考えたことがある。それは、人が誰のどんな著作をどの時期に初めて読むことになるかということは、実はあらかじめ定められていることなんじゃないかということ。

 

今までも、もちろん村上春樹の新作が出るたびにその名前は書店などで目に飛び込んできていた。でも、どうしてだかわからないけれど、作品に手は伸びなかった。今回、上で触れた2作品の他に、『ノルウェイの森』もまとめて購入した。具体的なきっかけを言葉にすることは難しい。けれど、このタイミングでこの小説を読むことがまったくの偶然で特段の意味もないことである、という意見には同意しかねるものがある。

 

それにしても、これはいたるところで論じられていることなのだろうけど、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読んでいると、要所要所で出てくる食事や酒の描写につられて、サンドウィッチが食べたくなって買いに行ってしまったり、ビールで酔っ払いたくなったり、挙げ句の果てに飲めないウィスキーにまでさえ手を出してやろうかなという気になってくる。そしてそれは、本当に愉しい経験だった。

 

 

話はまったく変わる。

 

先週末にアメリカの連邦最高裁が、同性婚も合衆国憲法で認められている権利であるという判決を出した。それを受けて、同性愛を始めとするLGBTレズビアンホモセクシュアルバイセクシュアルトランスジェンダー)の象徴であるレインボーカラーを自分のプロフィール画像に被せることがFacebook上で広がっている。

 

もちろん、性的マイノリティの権利保護や同性婚にも異性間の結婚と同様の権利を認める社会であったほうがいいと思うので、すかさずプロフィール画像を変更したのだけれど、今回のことで少し考えたことを書いてみる。

 

今回の判決は、同性愛者にも結婚の権利を認めたもので、個人的には言祝ぐに値するニュースであった。だから、プロフィール画像上でもそれを表明する意味も込めてレインボーカラーを施した。

 

ところがその次に浮かんだ考えは、少し行き過ぎなものだった。Facebookの友達リストには、性的マイノリティーの権利保護といった論件に敏感な人たちが少なくない。にもかかわらず(という接続詞を使うあたりにすでに予断が含まれるのだけれど)、みんながみんな、レインボーカラーのプロフィール画像にしているわけではない。それを見て、少なからず、彼らに対して「政治的に間違っている」といった感想が芽生えた。

 

直ちに、この感想は行き過ぎていて、ものすごく息苦しいものだなと思ったので、自分の考えを整理してみた。

 

連邦最高裁の判決は、同性婚を合憲とする、ある意味シンプルなものだ。どこにも、「だから全ての人が、同性婚や性的マイノリティーの権利保護に賛同するべきだ」とは言っていない。むしろ、同性婚を認めるということは、多様性を容認するということであり、その中には当然、「同性婚に対して違和感を感じる」あるいは「同性婚には反対である」という意見に対する容認も、また同様に確保されているはずである。

 

そう考えるに至って、自分が最初に考えたことがとても狭量で、ある意味で、社会主義共産主義の行き着いた先である、強制収容所や粛清につながる理路であることに対して、警戒心を持った。

 

Facebook上では、レインボーの意味をまったく知らない人も(当然ながら)それなりにいた。これも、自分の辿ってきた道に依存していて、例えば、自分は大阪外大のスウェーデン語専攻で学び、ジェンダーに対する問題意識を持った同窓生や先輩・後輩がいて、自分自身もジェンダーに関わる卒論を書き、出会ってきた人たちの中には同性愛者がいて、また様々な性的指向に関して色々議論をして、そういう環境でできたつながりなので周りも当然意味くらいは知っているものだという先入観があった。

 

逆に、周りにそういった環境や人間関係がまったくない人も、同じくらい世の中には存在している。決してそういう人たちが、問題意識に欠けるとかそういうことではなく、ある意味では単なる知識の差でもあるし、現時点でそういう問題意識に触れていないだけとも言える。そういう人たちを捕まえて、自分が賛同する政治的論件に対して無知である、あるいは立ち位置の表明がないという理由で見下したり非難したりすることは、(自分は経験していないけれど)昔の学生運動の時の「プチブル」「反革命」「反マルクス」といった有無を言わさない暴力や攻撃と、本質的には変わらないものなんだろうなと思う。

 

こうした、賛否両論のある論件に対して、最高裁なりである一定の政治的な判断が示された時のリアクションというのは、非常にデリケートなバランス感覚が要求されるものなのだということが、今回僕が一番重く感じたことである。

 

 

さ、寝よう。