谷 充展のブログ

ある時、不意に胸を衝く言葉たち。そういうものが、どこかに隠れている。そんな場所。

午後8時台の外食、里親ライフ、一期一会

オフィスを8時半過ぎに出て、階下のレストラン街にあるうどん屋で夕飯を済ませた。夜8時を過ぎて店内飲食ができることに、少しウキウキする。隣の店舗には、ハイボールの看板が店先に立っている。当たり前がなくなった時よりも戻ってきた時の方が、より感慨深い。先日は、薬局でラグビーの代表戦の中継が流れていたのを見たが、スタンドがかなり埋まっていることに嬉しくなった。このまま新たな波が来ないで、終息に向かいますように。

養育里親のことを書く。3月末の登録から半年の間に、一時保護委託という形で、4人の赤ちゃんを預かった。最初の3人は2週間前後だったが、最後の女の子は6週間。それぞれのケースで事情が異なり、委託解除のタイミングはマチマチだが、依頼はいつも当日。一時保護の特性上、そういうものである。

背景事情は異なるものの、皆1歳未満の乳児たち。どの子も可愛い。時が経つにつれて、愛着が大きくなっていくし、やはり送り出す時は少し寂しい気持ちになる。我が娘も4人の里弟妹との交流を通して、この半年で本当にお姉さんになった。自身の中では色々と押し殺している感情があるのかも知れないけれど、親の世話の仕方を見ながら、哺乳瓶でミルクをあげたり、泣いてるところをあやしたり、離乳食をあげたり。ベビーフードの白いお煎餅は僕も大好きなので、ベビと娘と3人で時々食べた。妻はチョコレート。

しかしながら、赤ちゃんを預かる度に娘が寝不足になり毎度毎度風邪をひいたりしているので、妻と相談して養育里親はいったんお休みしようということになった。妻も、そして自分も、依頼が続いたものだから、家の片付けやら模様替えやら、手をつけたいことが出来ていないし、なにより少し疲れてしまった。そんなだから、二人でよく、ワンオペでの2人以上の子育てなんて考えられないね、と話をした。人一人の世話でもてんやわんやなのに、2人とか3人とか、みなさんどうしてはるんやろか。

一時保護委託は基本的に乳児が対象なのだが、1日あたり1,920円の日当が支給される。それで、ミルクやらオムツやら全てを賄うのだけど、僕たちは安すぎるというふうに感じている。決してお金目当てで養育里親をやっているわけではないけれど、結構トントンくらいの収支になるのでもう少し金額を増やしても良いのではと思う。

里親について書こうと思いながらなかなか文章にまとまらず、ようやくある程度文字にできたので、8月に途中まで書きかけたものもついでに残しておこうと思う。

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いま、9ヶ月の赤ちゃんを預かっている。

前の記事ではサラッと書いただけだったけど、この4月から川崎市の養育里親として認定され、活動している。活動といっても、別にどこか他所に出向いて何かをするわけではなく、他所の子を家に迎え入れて養育をすることです。これまでに2人お預かりをして、今、和室の布団と襖の隙間に嵌まり込んでスヤスヤ寝ている男の子で3人目。

毎回、児相からの打診は昼前くらいにあり、「こういう事情の子がいるのですが、今日から受け入れ可能でしょうか」と、当日にやって来る。そうなると、大抵はバタバタします。1人目の時なんかは、ちょうど僕が洗礼を受けるために一人で大阪に帰る当日だったので、新幹線を最終に遅らせて、急遽オムツなどを買いに走ったり、家の片付けなどをやっていた。

そういうわけで、少し前まで4歳の一人娘仕様の家だったり子育て状態だったのが、また急に乳児を養育する機会に恵まれている。赤ちゃんを受け入れる度に感慨深いことの一つが、粉ミルクでの育児が僕たち夫婦にとってどれだけ楽かという事です。僕たちの娘は哺乳瓶の乳首を全く受け付けず、直接母乳のみだったので、毎晩毎晩妻が横になりながらお乳を与えている横で、授乳のできない父親は無力感でいっぱいになっていた。ようやく娘が大きくなってきて、離乳食が終わって色々食べられるようになったり、言葉を交わしながら一緒に遊べるようになってきて、本格的に僕自身の育児がスタートしたような感覚でいた。

そんな娘の育児だったから、赤ちゃんのミルクをささっと作って、妻が外出中でも哺乳させることが出来ることに、いちいち感動している。「おぉ、なんと楽なんだ」今日も、午後に妻が娘の矯正歯科の受診に自由が丘まで行くというので、その間抱っこ紐で背中に赤ちゃんをおぶりながら仕事をしていた。こういう時に、昇降式のデスクを買っていてよかったなぁと実感する。

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一時保護委託が解除になるときには、児相からケースワーカーが自宅まで引き取りに来て、委託中の様子など少し話した後、最後はタクシーに乗り込むところまでお見送りをするのだけど、その別れはいつも「元気でね」というものである。ほぼ確実に二度と会うことはないから、「またいつかね」とはならない。グローバル化が進み、遠い外国に帰ったり移住したりする友人とも「またいつか会おうぜ」と言えるこの時代に、再会を想定できない別れを立て続けに経験したこの半年でもあった。その度ごとに、不思議な気持ちになる。委託最終日の早朝、別室でミルクを飲ませた後に膝の上で寝かしている時など、「君がここにおるんも今日が最後かぁ。もう二度と会わんのやなぁ」などとしみじみとしている。

3月に祖母を二人立て続けに亡くした時は、年齢から多少なりとも予期していたことでもあったが、天国から見守ってくれてるというふうに感じるところがあり、今生の別ではあったが、絆や結びつきは変わらずそこにあった。あるいは、死という形で一つの区切りを迎えることで、物理的には会えなくとも精神的には近くに感じることができる様になったのかもしれない。反面、1歳にならない赤ちゃんを送り出すときには、彼・彼女の人生はこれからも続いていき、自分の人生も続いていくのに、その二つの人生が再び交わることは、ない。まさに一期一会である。

去る6月には、ご近所さんとのお別れもあった。お向かいのマンション、うちよりひとつ上の階に住むお兄ちゃん。歳を訊くと20代前半だといったが、時々ベランダ越しにやりとりがあった。昨年の緊急事態宣言中、よくベランダで娘とお絵描きをしたり家族三人でお昼のピクニックをしたりしていたが、お兄ちゃんの姿を認めると娘が大きな声で「おーーい!おにぃちゃーーん!」と呼びかけるものだから、向こうも無碍にはできず、色々と応えてやってくれていた。ときには、娘が自慢するその日のお洋服に対して、遊びに来ていたと思しき彼女と一緒に「かわいいねー」などなど、非常に愛想良くしてくれていて、妻と僕も大変良い印象を持っていた。そのマンションは単身向けと思われるが、頻繁に布団が干されていたり、植木鉢がベランダの塀の上にポツンと佇んでいたりしていたのもまた好感が持てたのだけど、晴れていたのが急に天気が変わって雨が降り出した時など、布団が濡れるのを心配したりもしていた。今年になって我々も少し心理的な距離が近くなってきた時など、妻がベランダから僕に向かって大きな声で「雨降りそうだねー!」といって、それとなくお兄ちゃんにも雨が降りそうだと伝えたりもしていた。終いには、「おーい!雨だよー!」と呼びかけてもいた。おばちゃんパワーw(本人談)。

その日もまた、雨が降りそうだというのでベランダ越しに声をかけたところ、実は今度引っ越すという。それを聞いた妻は、その晩、眠そうな娘を励ましながら、お兄ちゃんにカードを作ってあげていた。翌朝、まだ引越し作業中なのを確認して、我々のマンションの前にある小さな子供広場で遊びながら、お兄ちゃんが出てくるのを待って、無事にカードをわたすことができた。娘の記念にと写真を撮ってもらったら、向こうも思い出にと写真を撮ってくれたのは、親としても大変嬉しいことだった。そして、カードのお返しにと、彼女がお土産にくれたというエジプトのパピルスのレプリカをくれた。結局、お互いに名前を名乗ることも、もちろん連絡先を交換することもなく、プレゼントとお返しをそれぞれの手元に、お互いの健康を祈りながらの別れとなった。

里親の話から一期一会の話になってきたついでに、もう一つ。高校や大学のリーグ戦の主審を担当すると、副審と第4審はたいてい両チームか、あるいは他校の選手が来る。その大半が、じゃんけん負けで資格を取得させられたなどというきっかけで審判をしに来ているので、当然モチベーションは低い。そんな彼らと一緒に、90分のゲームを担当する即席の審判団をリードする立場にあるのだけれど、最近は、「今日だけ、この2時間ちょっとの間だけ、同じテンションで一緒にやってくれ」と頼みながらモチベートしている。こんな暑苦しいオジサンとやるのは、これが最初で最後やから、と。そうすると、彼らが僕の話を聞く姿勢や注意の向け方が、心なしか試合に対して前向きなものになるように感じるから不思議である。審判の役割とか責任とか、もちろんそういう話もするのだけれど、その前提に、一期一会という切り口で関係を築くのも効果的である。そういう関係性を土台として、具体的な依頼事項などの話が彼らにもスッと入りやすくなるのではないだろうか。

とりとめがなくなってきた。寝よう。明日は金曜日。天気予報は晴れ。洗濯できるのが嬉しい。そして週末は、オンラインの研修と高校生のゲームがあり、来週水曜日から10日間、年末年始の代わりに帰省。6-7日の週末は両日とも堺の某サッカー場にて終日オジサンたちの大会の審判。ワクワク。